四の章 エピソード④ 「風に吹かれて」
『絶妙のタイミングで支配人の小笠原がフルーツを手に、如才のない笑顔を浮かべながら客の前に現れた。』
山奥温泉旅館の洋食部門調理長の田崎は、団体の客の夕食の仕込みを終えて屋上に一服をつけに来た。マイルドセブンを一本取り出すと風よけのために煙草に手をかざして100円ライターで火を点けた。大きく紫煙を吸い込むと緩やかに口から吐き出した。遠くの山並みはほんのりと雪化粧し、紅葉の鮮やかな色に滲む白は妙な寒々しさとともに昨日の出来事を田崎の脳裏に蘇らせた。
「お客さんが怒って、調理長を呼べと言ってます」血相をかえて仲居が調理場に飛び込んで来たのは、宿泊客の夕食がだいたい落ち着く午後9時だった。
仲居のただならぬ状況を察しコック帽を握りしめながら客のテーブルに近づいていくと 「ひどいねぇ。これ、詐欺じゃない?これで金取るなんてひどすぎますよ」その客はいきなりまくし立てた。客は遠方からの客ではなく、田崎も顔をなんとなく覚えている、この山奥温泉郷の麓の街に開業する外科医だった。
「そりゃね、期待してないよ、こんな山奥だもの旨いものは!ただしねあまりにもひどすぎるよ味がどうこうじゃなくて嘘がね」
その客の言い分はもっともだった。あらかじめ予約を受けていたワインは、保存状態が悪かったらしく酸化している。テリーヌに使われているフォグラはチキンのレバーペースト。キャビアは完全な偽物。松坂とメニューに書いているサーロインは輸入物。
「何が悪いんだ日本の食品業界はそんなもんさ、客も店側もどっちみち何も分かってないんだから、だいいちうちの温泉は循環式の沸かし湯だそれがありがたくて来てるんだろう。ジオネラ菌でそのうち死ぬぞ」とわけのわからない反論を心の中で呟きながら、田崎は唇をぐっと結び客の話に耳を傾けると共にひたすら頭を下げ続けた。
いつもながらの通り一遍の客の説教を聞き、客の腹の虫がおさまったあたりに、頃合いをみはからって支配人の小笠原がお詫びのフルーツを運んできた。
厳しいご時世、本物で勝負など夢の夢、何も分かっていない日本人に本物を出してもネコに真珠、豚に小判なのだが、たまに、ごくたまに僅か数パーセントの確立で口の肥えた客に見抜かれる。そして、見抜かれる確立も予測して、お詫びに出すフルーツも原価に取り込んで利益計算しているところが、この温泉旅館の経営者のしたたかさにだ。鬼のような経営者はいつも田崎に言う「ほとんどの客は蟹、海老、アワビ、ステーキという言葉のイメージだけで納得してるだけで本物を見抜く眼は無い、循環式の偽温泉に入って心が癒され満足して帰っていく、それで良いのだ。誰も傷つかないし格安の料金で喜びを感じることが出来るのだ。それが日本の常識だ。日本の観光なのだ」
そういうわけだから支配人と田崎の怒りまくった客に対する対応も実に慣れきったものとなっていた。田崎がひたすら頭を下げる虐められ役、少々客の興奮が収まったあたりで如才のない笑顔で支配人の小笠原がフルーツをもって現れる。おきまりの火消し作業だ。この晩も定石通り客の怒りは収まり田崎と小笠原は目と目を見合わせながら、ふっと口から息を吐いた。
しかし、田崎の心は強烈に荒んでいた。嘘でも客が喜んでくれればそれで良いと思っていたが、その日田崎は大切なことに気がついた。偽物を出すには本物を知らなければ何が嘘なのかわからない。客を騙しているつもりが、嘘と本物が自分にはそもそも何も分かっていないのだ。自分はフレンチの料理人だと思っているが、フランスに行った事もなければフランス語も話せない。いや、フランス語どうこうじゃなく標準語すらまともに話せないのだ。高校を卒業して地元のホテルに勤め、地元の温泉旅館に料理長として引き抜かれ、調理場では若い連中を怒鳴り散らしている自分があまりにも惨めで哀れに思えてきた。外の風に当たることなく小さい社会で威張り散らし、客ばかりか自分自身すら欺いて生きている自分にようやく気がついた40男は、短くなった煙草を灰皿に押し潰しながら呟いた。「旅に出よう。外の冷たい風に吹かれよう。そして自分をみがこう、まだ遅くない」と、、、、、。



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