岩手県は県土の90%以上が森林。見渡せば山々に囲まれた自然豊かな県です。
その岩手県が有する北上山地の北端に位置する洋野町は、面積の70%が森林原野。
三陸から吹くヤマセの影響を受ける洋野町の木々は、密度が濃くとても良質と言われています。 その地元の木々を使った家具から食器までを作り出す現代の名工がいます。 名前は「三本木烈(イサオ)」さん。
厚生労働大臣技能表彰受賞をはじめ、岩手県卓越技能表彰など様々な賞を受賞しています。
三本木工芸代表三本木烈氏は、昭和16年生まれの71歳。中学校を卒業後、二戸市の訓練校に入学。 その後、集団就職の時代でもあり、東京の金谷製作所にて10年間修業を積み、昭和41年26歳の時に久慈に戻り、建具屋として独立しました。 建具店を営みながらも、地域活性の一役を担いながら様々な作品を作品を生み出していきました。
そして、昭和52年36歳で大野民芸家具組合を設立し、代表に就任しました。
その他、数多くの賞を受賞しています。
夏場はひんやりと心地よい冷たさを感じ、冬はほんわりと優しいぬくもりを感じる木。手になじむなめらかな木肌。そしてきれいな木目。触れることによって、心がほっと落ち着きます。
使う人の立場に立って考えたデザインと機能。 熟練の技術によって木目、曲線を美しく仕上げています。
三本木工芸の作品は、ルーター、ろくろ、さしもの技術という3つの技術を組み合わせて作っています。 「この3つの技術を使い、作り出せるのはほかにはいないですよ」と三本木さん。 ルーターとろくろを組み合わせることにより、角のない丸みがある優しさを。 さしもの技術により、釘やねじを使わずに組あわせた究極の家具が出来上がります。それが、三本木工芸の作品の特徴です。
中学校を卒業し、訓練校で学んだ三本木さんが東京へ集団就職し、修業した日々。 「あの頃は、その流れが普通だったんだ・・・」と三本木さんは振り返ります。 10年間の修行ののち、久慈に戻り建具屋として独立しました。 若い頃は、建具を売ってできたお金を握りしめ、盛岡に行っては木工加工の技術を学んだんだそう。
「若いからできたのよね……」 三本木家を陰で支えた奥様が笑って話してくれました。 25年ほど前には、自宅と工場が火事になり全てを失うという災難にも見舞われました。 しかし、持ち前のパワーと周りの人に支えられながら、新築した住宅、工場と再建しました。 「失敗したとしても、何かに挑戦しなきゃね」と奥様。 家族一丸となって「三本木工芸」として成長していきました。
角トレー4個セット、パソコンデスクセット、安全チェア(片肘)
昭和54年、木々を取り扱う仕事をしている中で、地域で開催された地場産業セミナーに参加したことがきっかけで、 三本木さんの人生は大きく変わりました。東北大学秋岡先生との出会いです。 セミナーの講師として来た秋岡先生に感銘を受け、どうにか旧大野村の地域産業の活性化を図れないかと仙台まで言って懇願しました。 そのことがきっかけで、「一人一芸の村」運動が始まったのです。 大野には、豊富な木、高い技術があります。 昭和55年から、樹齢100年以上の大木を素材とした自然のぬくもりを感じさせる木の器づくりが始まりました。 手始めに大野村の小中学校の給食器として木製食器を導入しました。 その取り組みが全国に注目され、大野木工が全国に知れ多くの反響が集まりました。 そして村をあげての木工品制作の時代が始まったのです。
大野には、豊富な木、高い技術があります。 昭和55年から、樹齢100年以上の大木を素材とした自然のぬくもりを感じさせる木の器づくりが始まりました。 手始めに大野村の小中学校の給食器として木製食器を導入しました。 その取り組みが全国に注目され、大野木工が全国に知れ多くの反響が集まりました。
紆余曲折を経て、現在は、若い人たちにその技術や知識を伝授し、自らも斬新なデザインを生み出しています。
高い技術があるからシンプルなデザインの中にも、他にはまねができないものが生まれます。 全国の物産展に行くと高価な家具がどんどん売れていきます。 使い勝手、さわり心地等、使い始めるとその違いに驚きます。 全てが計算しつくされた芸術品であり、日用品なのです。そして村をあげての木工品制作の時代が始まったのです。